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2007-01-16

私的ということ、公共的ということ。

メモ。

建築を設計していると良く利用する言葉がある。“プライベートな”・“パブリックな”という言葉。私と第三者による部分の対比のための言葉。
住宅であれば、家族の利用が主となる部分と家族以外の利用も考慮する部分。都市となれば私達の校区や自治区、私達のまちとそれ以外となる部分の対比。。

つまり、プライベートな世界・場・空間は拡がる。私、私の家族、私達・・。
私の部屋、私達の愛の巣、私達住民のまち・・。
仲の良い友人達とのおしゃべりや飲み会では、場の流れ・空気があって、流れの中で意図する以上のことを話してしまったり、場違いな話題は場の流れや空気を乱すと敬遠する。
私的というのは私という個別主観、私達という集合主観による世界観だろう。

ならば、パブリックな世界・場・空間は、拡がることで一人称単数としての私の主観が薄まり、“だれでも”赤の他人さえもという三人称的な世界観。個性を持たないということ。

私たちの家(プライベート)の周辺環境(パブリック)。
誰でも安心して住める(パブリック)私達のまち(プライベート)。

“プライベートな”・“パブリックな”世界は連続している。
私が私の外に出でて世界を私の世界とするように。

建築される“プライベートな”・“パブリックな”部分は建築されるモノによって伸縮する。手法も変わる。
この2つの言葉の間となる部分の仕方が肝要となる。

・・・・・再考・熟考・・・悶々。

2006-06-30

記号と意味。

頭の整理のために。


 私は、他者と対話する。私は思考を表現し、伝達する。他者へ、私の思考は完全には伝達されないものの、そうしようと表現する。

 私の話す日本語には様々な語が含まれる。だが、そうした語と意味との関係は絶対的なものではない。言語は様々な歴史の経過と共に更新され続けるものであって、語によって表現されると考える意味は普遍ではない。

 意味は語(記号)に依存しない。或る文章の内、文末を不明瞭にすることでより明瞭な意味を伝える。また、分からない語があったとしても前後の関係性から、文章自体が表現する意味を推測する。身振り手振りや話し方によって、語の示す意味よりも正確に思考を伝達する。言語は、隣り合う、又は暗に隠された語の関係性、そして、言語によって表現しようとする身体性に強く依存する。

 或るまちなみの美しさは隣接する部分の集合による全体性によって現出する。部分そのものが美しいのではない。また、その部分を任意に羅列することで同様の美しさが得られるとは限らない。表現される意味は全体的なものであって、部分的なものではない。

 記号と記号の間にある隔たりにこそ意味がある。単一では意味を成さない記号の集合に美しさや醜さを示す絵画のように。良質な建築は、ディテールに依存するのではなく、空間性や社会性、経済性に依存する。

 様々な記号を組み合わせることで意味が作り上げられるわけではない。表現しようとする私の思考、他者の思考が重要となる。何かを表現し、創り出そうとする私の動機が重要となる。

 重要なのは部分ではなく全体、そして何を意味するかということに他ならない。

・・・・う~む、再考。

2006-02-13

スタイルということ。

頭の整理のために。


 私は、あなたは、スタイルを持って生きている。自分自身を他者に表現する仕方を持っている。

 たとえば、家や職場などで身近な人が移動するときの足音を聞いたとき、誰が歩いているのかを、その音だけで知ることができる。しかし、その音の主は、自分を表現するために足音を意識しながら歩いているわけではない。

 私は私を表現する仕方を持ち合わせ、他者はそれによって私を知覚する。しかし、そうした仕方は私にとって意識的なものではない。私は、楽しさを表現するために笑うのではなく、楽しいから笑う。私らしく笑おうと考えながら笑うのではなく、楽しいから笑う。

 肉体的、精神的な成長を遂げるのと同時に、私のスタイルも変化し続ける。体の成長に合わせ、歩き方は変化する。他者への憧憬や愛情によって、他者のスタ イルを意識し、模倣する。私は他者には決してなり得ないのだから、取捨選択しながら模倣する。模倣の経過とともに、私のスタイルは変化する。

 私を表現する仕方(スタイル)は、世界に在る私の存在の仕方である。私は周囲の状況とともに生きている。世界の、状況の変化とともに、私のスタイルは変 化する。変化させられる。もし、私自身のある一定のスタイルを意識し続けるのならば、私は私に固執し、私を模倣する。自己模倣する。

 スタイルはすでに私とともに在る。確立するものではなく、既に其処に在る。私で在るならば、私のスタイルは其処に在るのだ。

・・・・再考。

2006-01-18

奥行と私。

頭の整理のために。


 私とモノやヒトの間には距離がある。私にとってその距離は奥行であり、他者から見た私の奥行きは幅となる。垂直面(高さなど)でも同じことが言える。こうした全ては等価であり、それらを元に空間内の位置づけを行う。

 遠くにいる人はとても小さな、近くにいる人は大きな像として網膜上に現れる。しかし、私は、そうした小さな、大きな人の像を、まさにその人の大きさとして知覚するわけではない。知人であってもなくても、距離に関わらず、ある程度の大きさや身長を知覚する。

 遠くにいる人はその像がはっきりしなくなる。キメは粗くなる。近くにいる人はその像がはっきりし、きめが細かくなる。まなざす私にとって手がかりや正確さに差異が現れる。奥行の知覚を通して、私はその人まで遠さを、近さを知る。世界を了解する。

 奥行きの知覚は空間性を前提とする。空間内で幅や高さと行った奥行きを知覚する私にとって、世界、空間は既に構成されたものである。既にある世界は客観的な世界、私によって了解された世界は主観的な世界。客観的世界を背景に持つことで、私と他者の知覚は共有される。

 より少ない手がかり、より粗いキメは不確かさを意味する。奥行きを知覚する。知覚させる。より広い空間と感じる。空間はより広がりを感じさせる。


・・・なんかまとまりに欠ける。。。再考だな。

2005-12-27

服を着る私~トニー滝谷を観た~。

頭の整理のために。


 私は服を着ている。日常生活のほとんどを着衣して過ごしている。着衣する私は、他者に対して何かを表現する。着衣される衣服は、私を表現する。

 私の身体は表現する。表情や仕草によって他者に対して、喜びや悲しみ、私自身を表現する。私のそうした表現を、他者は己の身体によって感じ取る。私と他者は決して相容れないが、他者の中で私は存在をえる。

 たとえば、幸福(礼服)を、悲壮(喪服)を、着衣によって表現する。着衣と共に、私はそうした感情を生きる。他者は、着衣した私の姿をまなざし、感じ取る。着衣することで、私の表現は拡張する。私の身体を拡張する。

 私や、知っている誰かによって着衣されたものと似ている衣服を見るとき、衣服は私や誰かを表現する。私や誰かに着衣されなくても、私や誰かを知っている 人に対して表現する。私や他者を想起させる衣服を、その衣服と似たものを、着衣する、まなざすことで、私と他者の身体性は共有される。

 衣服は私のとても身近なモノ。私の身体を拡張する、拡張させる最も身近なもの。

・・・と、トニー滝谷(DVD)を観て、観終わって感じた。

・・・服に依存する、妻を見て。
・・・服から妻を見る、夫を見て。
・・・服から何かを感じる、女性を見て。

 いい映画でした。で、再考。

2005-12-23

光の中。

頭の整理のために。


 私は、日常生活において目で光を捉える。対象を視るということは光を視るということ。明るい方が多くの対象を捉えることができる。

 何かを見るとき、私は"目(視覚)"だけで見ているわけではない。林檎の色艶から、味や熟成、匂いや質量さえも見る。病気や事故で触覚が麻痺すると目で視ることはできても、その存在に靄がかかるという。
 対象の存在は、私の五感が同時に捉える。五感は対象に捉えられる。見るということは、映像を受容するだけではなく、身体に変化をもたらす。私の身体の運動性を内包している。

 光の中で私は多くの対象を見る。多くの対象に見させられる。捉えることのできる対象が減る、対象の輪郭が不明瞭になるならば、私の運動性は軽減される。 一切、光のない暗闇では、何も視えない。不安が襲う。視覚が麻痺することで、対象の存在に靄がかかる。私の身体に、存在に靄がかかる。

 昼、明るい日差しの下で、私は活発化する。夕暮れ、夜の白熱灯・間接照明によって私は安らぐ。光の変化と共に、私は私の存在を更新する。更新させられる。私は光の中で生きている。

・・・イマイチだな。再考。

2005-12-21

感覚して、知覚する。

頭の整理のために。


 私は感覚器官により、世界を感覚する。視る+聴く+嗅ぐ+味わう+触れる。感覚することは世界とつながること。私は感覚し続ける。日常生活において感覚することは止められない。

 私は知覚することで、世界を生きる。感覚された世界の中から或る対象へと絞り込み、或る対象について思惟・行動する。或る対象について思惟・行動させられる。他の対象は、感覚された世界「地」の中で「図」として浮かび上がるまで、背景へと遠のく。

 こうした所作は意識的に行われてはいない。こうした全てを支える身体は、こうした全てをとても滑らかに行う。世界とつながる感覚と、世界を生きる知覚は、私の身体と不可分。同時に対象となる世界とも不可分。つまり私の存在は、身体+世界と不可分。世界内存在。

さてさて、再考。