私的ということ、公共的ということ。
メモ。
建築を設計していると良く利用する言葉がある。“プライベートな”・“パブリックな”という言葉。私と第三者による部分の対比のための言葉。
住宅であれば、家族の利用が主となる部分と家族以外の利用も考慮する部分。都市となれば私達の校区や自治区、私達のまちとそれ以外となる部分の対比。。
つまり、プライベートな世界・場・空間は拡がる。私、私の家族、私達・・。
私の部屋、私達の愛の巣、私達住民のまち・・。
仲の良い友人達とのおしゃべりや飲み会では、場の流れ・空気があって、流れの中で意図する以上のことを話してしまったり、場違いな話題は場の流れや空気を乱すと敬遠する。
私的というのは私という個別主観、私達という集合主観による世界観だろう。
ならば、パブリックな世界・場・空間は、拡がることで一人称単数としての私の主観が薄まり、“だれでも”赤の他人さえもという三人称的な世界観。個性を持たないということ。
私たちの家(プライベート)の周辺環境(パブリック)。
誰でも安心して住める(パブリック)私達のまち(プライベート)。
“プライベートな”・“パブリックな”世界は連続している。
私が私の外に出でて世界を私の世界とするように。
建築される“プライベートな”・“パブリックな”部分は建築されるモノによって伸縮する。手法も変わる。
この2つの言葉の間となる部分の仕方が肝要となる。
・・・・・再考・熟考・・・悶々。
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